一般財団法人 全国唐津っ子連合

「唐津出張日記」紹介

 唐津に行った時に遭遇したイベントや見聞きしたことを掲載します。
 できる限りその日のうちにアップしたいと思っていますが、都合で後日でのアップとなることもあります。その節はご容赦をお願いします。


 平成29年9月30日 肥前町 納所くんち 5年ぶりの山笠巡行

 山笠が5年ぶりに巡行されるというので見てきました。唐津に着いてすぐ納所に行ったのですが、山笠はすでにお旅所(農漁民センター)に鎮座していました。今日は抜けるような青空で、絶好のお祭り日和です。
 ここお旅所にも「住吉神社」という扁額のある鳥居が立っています。5本の幟がお祭りの雰囲気を盛り上げています。このお祭りの正式な名前は「住吉神社神幸祭」というようです。
 大きな山笠2台が、まぶしい秋の陽を受けて輝いています。西山笠の鳳凰丸、東山笠の浦島太郎と竜宮城。山笠青年会を中心に、1か月半ほどかけて組上げるそうです。その作業を「山張り」と言ってました。
 鳳凰丸は高さ10メートルほどあり、唐津曳山の鳳凰丸よりひと廻りもふた廻りも大きく見えます。竜宮城は高さ13メートルくらいで、浜崎祇園山笠や小友祇園山笠と高さを競っています。
 人垣があって見えなかったのですが、2台の山笠の前では西組と東組で、ガメ踊りの競演が行われていました。
 お旅所の山笠は、ここから1キロメートルほど離れた住吉神社(本宮?)に向かいます。その行列の先頭は鳥居を乗せた山です。納所くんちの山笠は江戸後期から曳かれていた、と聞きましたが、だとすれば唐津の江川町が明治に入って七宝丸を完成させる前は鳥居山を曳いていたので、その原形がここ納所に残っているのかもしれません。
 鳥居の次は3台の神輿です。神職の服装をした年配の人たちが曳いています。笑顔を交わしているのはお爺さんとお孫さんでしょうか。いや、ひ孫さん?
 農協近くの交差点を山笠が進みます。囃子は大太鼓、小太鼓、鐘、笛です。遠景に風力発電の羽が見えますが、今では見慣れた風景です。

 平成29年8月15日 鎮西町 海中盆綱引き

 綱引きの綱が準備され、午後1時に小学生たちが集められました。綱には、子供が引くための細綱がくくられています。小学生は、名護屋小からの50人のほか、近くにある「波戸岬少年自然の家」で合宿している、市外のいくつかの小学校の生徒たちが100人くらいが参加していました。
 太鼓の合図で子供たちは、一斉に海に入り綱に取り付きます。子供たちは、この時が一番元気が良い。
 綱引きは3回戦。特に市外の小学生は、最初のうちは要領がわからない様子ですが、3回目になると慣れてきます。最後は向こう側が圧倒的な勝利でした。
 子供の3回戦の後は大人の出番。高齢の男性も加わり、総勢40人くらいです。
 全員、濃紺に薄い紺色の縦じまのある「どんさ」と呼ばれる、長い裾の着物を着て腰を縄で締めています。漁師の服装だそうです。写真右端の後ろ向きの、初老の男性の着こなしが板についています。
 着物の右襟には「波戸自治会」、左襟には「盆綱引き保存会」と染め抜いてありました。
 太鼓の合図で綱に取り付きますが、大人の場合は細紐が外されていて、男たちは両腕で綱を抱き、撚られた縄の峰に指をかけて引いています。
 両軍の指揮者が「オッ オーイサーノー エンヤー!」(四拍子、「オッ」と「エンヤー」が一拍目)と声をかけ、「エンヤー!」で力を合わせて引きます。
 両軍膠着状態になると、綱を引きながら一斉に「エンヤ エンヤ エンヤ エンヤ」(二拍子)と綱を上下させます。すると周囲に波が立ち、これで気勢を上げてまた綱を引き合います。波が立つと周囲の観客から拍手が沸いていました。
 恐らく昭和の時代には、近郷近在の娘さんたちがたくさん集まって見ていて、男たちはその拍手と歓声にますます気合が入ったのではないでしょうか。

 平成29年8月5日 呼子町 小友(こども)祇園祭

 九州に迫る台風5号のためか、呼子町小友祇園祭を見るためには、午後1時には現地に来ていた方が良いとのご忠言をもらってはいたものの、現地に午後1時30分頃到着すると、もうすでに山笠は動き出していて、まさに海渡りの寸前でした。急いでカメラをセットし、山笠の前面に回り込みました。
 山笠が海に入り始めたものの、海渡りをするのに適した潮位としてはまだ潮の引き方が十分ではなく、一旦中止して山笠を戻し、しばらくの休憩となりました。幸か不幸か、40分ほど時間待ちをするとのことでした。
 約40分後、海渡りに再度挑戦。前方と後方の担ぎ手たちが海に入ったところでしばし逡巡。結局それ以上海中に進むのは中止となりました。まだ潮位が高いのでしょう。ほんとうならば、担ぎ手が首まで海水に浸かりながら海中を担ぎまわるのだそうです。浮力がつくとは言うものの、やはり相当の重さであるのには変わりないでしょうし、担ぎ手にとっても海水の抵抗があり足元が不安定になるので、海渡りも大変なことだと想像します。
 陸に上がった山笠は、小友港の南の端から北の端まで移動します。車輪はついていません、この図体でも担ぎ山です。高さ15メートル、重さ3トン。担ぎ手は40~50人なので、均等に荷重がかかるとしても1人60kg相当となり、相当重いです。そのせいか、担ぎ手の掛け声は「オー、ドッコイ」と野太く低い。囃し手は山笠の中に入って太鼓と鐘で囃しています。表山の外題は「牛若丸 五条大橋」、裏山は「川中島の合戦」。
 これが山笠の全容です。土台は一辺1.5メートルくらいのがっしりした木枠で、底板に重しが載せられています。木枠には4本の柱が立ち、その柱の下端が山笠の唯一の接地面となっています。柱には担ぎ棒が取り付けられていますが、直径ほぼ20cm、長さ約10mくらいの丸太で、なんと4本もあります。
 柱の上部には、やはり10mくらいの4本の丸太が括られていて、飾り付けの三次元舞台となっています。
 担ぎ方は独特です。まず4本柱の後ろ脚を支点にして前の担ぎ棒を上げ後ろの担ぎ棒を下げ、反動を利用して次は前脚を支点にして前を下げ後ろを上げます。もう一度前を上げて後ろを下げた後、前傾に戻る時に一斉に肩に担ぎます。
 地面と山笠の接地面とは、1cmあるかないかのわずかな隙間しかありません。車が走る舗装道路だと凹凸が少ないので、引っかかることもなく何十メートルか一気に進むことができます。その時の掛け声は軽やかに「ヨーヨーヨカヨカ、ヨーヨーヨカヨカ」。
 八坂神社への戻りは、凹凸の多い旧道を通ります。道路の何かに脚が引っかかると、その都度山笠は止まります。何度も何度も引っかかりながら、その度に例のギッコンバッタンを繰り返して担ぎ直して進んで行きます。
 幅4~5メートルしかない道を進む場合、指揮者の判断力と指示の伝達系統がしっかりしていると同時に、担ぎ手の方向制御能力が確かなものでないと上手く行かないと思うのですが、周囲の家屋に接触することもなく山笠は進みます。うまいものです。
 海のある風景も良いですが、この風景もなかなか良いですね。
 八坂神社前の上り坂です。右の鳥居が八坂神社です。
 海に入る山笠自体が珍しいそうですが、高さが高くて不安定なこの山笠を「担ぐ」というのも珍しいと思います。担ぐ方は相当の労働となり、40~50人の力自慢の青壮年を集めるのは一苦労だと思います。町の人の話では、わっかもんがおらんけん今年はやめよう、という話もあったとか。
 でもいろいろ知恵を出し合って、是非続けて欲しい、と勝手ながら願っています。
 山笠は八坂神社前に鎮座です。この山笠の向こうに子供山笠(車輪付きの曳山)の「かちかち山」がいるのですが、残念ながら写っていませんでした。
 明日6日も海渡りや町廻りが予定されていますが、台風5号の動きからすると今日よりも状況は悪くなりそうです。

 平成29年7月30日 2017国際渓流滝登り in ななやま

 ここは七山滝川にある鳴神の丘運動公園。「2017国際渓流滝登り in ななやま」のメイン会場です。今年はその第28回だそうです。今年は、スタートからゴールまでの時間を競うタイムレースを取り入れていて、28人の健脚たちがエントリーしたようです。
 参加者は老若男女の1,380人。「国際」だけに外国人も多数参加していて、約30か国から152人。中国人と韓国人が多いそうです。九州大学や佐賀大学、佐世保基地からの団体さんもいました。
 コースの全長は5キロで、そのうちの始めの1.5キロほどが渓流コースです。その後は、滝川川沿いの遊歩道コースで観音の滝まで続きます。そこが折返し点となっていて、そこからは一般道に上がって出発点に戻ります。
 ここは、渓流コースの最終地点です。まだスタート前ですが、スタッフたちは準備に余念がありません。参加者たちは全員ヘルメットとライフジャケットを着用しますが、事故防止のために念には念を入れています。橋の上からの撮影さえも禁止です(これを撮影した後注意を受けました)。一方、消防のレスキュー隊員も、万が一のために待機します。
 地元の女の子たちが水遊びに興じていました。まだスタート前なので、スタッフたちもその子たちの相手をしていました。
 参加者たちがやってきました。タイムレースに挑む集団はスタート後間もなく通過してしまったので、この集団は一般レースの中の先頭集団です。まだ元気な人もいたり、既に息が上がっている人もいました。
 ここは、地元では「すべり台」と言われている地点ですが、今年は水量が少ないため、すべり台で遊んでいく人はいません。
 ロープを使って滝登りに挑む人もいれば、パイプで作った階段を登る人もいます。やや太めの男性が、ロープで滝を登りきり、周囲のスタッフの喝采を浴びていました。若者も含め、階段を使う人が多かったのは意外でした。
 ここは川底が深いせいか、右岸の崖から川に飛び込み、左岸の階段を使って川岸に上がる地点となっています。高い方で4~5メートルくらいの落差でしょうか。低い方で3メートルくらい。ほとんどの人が飛び込んで、水しぶきを上げていました。見ていても爽快です。
 さて、タイムレースの結果は1位が38分53秒だったそうです。なんと、1、2、3位とも伊万里市の人だったそうです。来年はもっと過熱するのかもしれません。
 

 平成29年6月上旬 呼子町呼子の風景

 呼子港の奥にある駐車場を囲むように、武者幟が30本ほど立ち並んでいました。6月3日の土曜日には子供綱引きが行われるので、それに合わせて立てているのだそうです。日差しは強いけど爽やかな風に吹かれ、子供たちが元気に綱引きができることを祝っているようでした。
 呼子漁協に近いところから見える呼子大橋です。右側が加部島、左側が呼子町殿ノ浦です。橋の下に、先日の弁天島や遊歩道が見えるのですが、遠景過ぎて良く見えません。それにしてもこの紺碧の海の色はどうでしょう!
 呼子港から出て行く「そよかぜ」号。小川島に向かう定期船です。
 実は6月4日(日)の呼子大綱引きを見たのですが、ここでその様子を語りたくはありません。何故ならば、岡組浜組1対1で迎えた3回戦に、こともあろうに喧嘩が始まったのです。観光客にとっては興覚めでした。「3回戦は中止!」と宣言する久萬実行委員長の声は、無念さが滲んでいました。
 これぞ呼子の風景。イカの種類はわかりませんが、向こうの青空が透けて見えるような新鮮さです。活いか料理に使っているイカは、ヤリイカとか剣先イカと言うのだそうですが、このイカは何でしょう。
 旧呼子ロッジの沖合です。右の島は鷹島、左が小川島です。
 同じ離れ島の加唐島(唐津市鎮西町)に、6月3日に行きました。武寧王生誕祭があったからです。しかし、そのことについて気楽な感じでは書けません。古代北部九州と朝鮮半島との関係は、深いものがあったようです。
 これは小友(こども)漁港。旧暦の6月14、15日に開催される小友祇園祭で、巨大な担ぎ山が海に入る舞台となるところです。新暦で言えば今年は、8月5日(土)と6日(日)だそうです。




 次回更新は8月上旬です。

 平成29年5月22日 海青中学校と呼子町・弁財天

 (5月21日の続き)名護屋中と打上中と呼子中の統合中学校は、海青中学校と言うのだそうです。鎮西町と呼子町を結ぶ「名護屋大橋」の、呼子側のすぐの交差点「伊達政宗陣跡」を南側に曲がり、鎮西町横竹に入ったところにその中学校はありました。丘陵の上に建っていて日当たりの良い立地です。
 ネットによれば、海青中には1学年70~80名の生徒がいるようなので、1学年2学級ということでしょうか。3校の統合後でもこの程度の生徒数だということです。
 さて、涼しい海風に吹かれながら名護屋大橋の歩道を歩いていると、呼子町と加部島を結ぶ呼子大橋が見えていました。この大橋を良く見ると、橋の下に何か人工物が海面近くにあるのが見えました。どうも大橋の呼子側の真下から小さな島に伸びている橋のようで、小さな島に歩いて行けるようです。早速行ってみることにしました。
 小さな島は弁天島といい、さきほどの人工物はこの弁天島に渡るための遊歩道でした。以前は干潮時にしか渡れなかったようですが、呼子大橋の完成と同じころにこの遊歩道を作り、いつでも渡れるようになったそうです。
 弁天島には男島と女島の2島があります。遊歩道が着いた島は小さい方の島なので女島でしょうか。女島には「弁財天」という扁額のある鳥居が立っています。両脚は海水による浸食が激しいです。鳥居の右側に見えているのが男島でしょう。
 鳥居をくぐり少し上ると拝殿がありました。昔呼子で捕鯨が盛んだったころ、漁に出る船団がここに立ち寄り、安全と豊漁を祈ったと言われています。
 鳥居越しに海を眺めると、正面に特徴的な形の鷹島が見えました。気温は30℃近くありましたが、湿度が低くい上に海風があり快適な天候でした。

 平成29年5月21日 鎮西町 旧名護屋中学校

 名護屋城址に向かう県道23号沿いに、学校のような建物があったので見てきました。旧名護屋中学校です。写真は正面玄関です。蘇鉄が植わった円形の花壇には、「向学心」と刻まれた石碑が置いてあります。
 校舎の塔部の側面に小さめの時計が掛けてありますが、今も正しく時を刻んでいます。
 正面玄関から門の方を見ると、左に武道館、右にプールがあります。3本のポールはまだ真っすぐ立っています。
 門の傍には、これだけが真新しく見える、黒光りしている石碑が置かれています。「名護屋中学校跡地記念碑」とあり、昭和22年に名護屋村立名護屋中学校として開校し、平成25年3月に打上中と呼子中との統合によって閉校し、その66年間で5866名の卒業生を送り出したようです。
 この建物は奥の方にある体育館です。その傍らに平均台が2台置かれていました。この平均台で汗と涙を流した体操部員もいたことでしょう。
 これは門を入ってすぐ左手に立てられている掲示板です。大きな3月のカレンダーが貼ってあり、その月の行事予定が書き込まれています。その3月23日土曜日のマスには「閉校式」と書かれていました。
 正面玄関から門に向かう左側に、道路をまたぐ歩道橋がかかっています。道路向こうの運動場につながっているようです。

 名護屋中と打上中と呼子中の統合でできた新しい中学校は、今どういう名前でどこにあるのでしょうか。5月22日に続く。

 平成29年4月24日 鎮西町 波戸(はど)港

 波戸港です。この港は南東側(写真左手)が海に開いていて、堤防が内と外の二重に築かれています。写真はその内側の堤防の中で、東側から撮っています。海の中での綱引きとして有名な「海中盆綱引き」は、この海面の右側で行われるということです。2階建ての白い建物は、佐賀玄海漁業協同組合の波戸支所です。
 これは西側から撮った写真です。漁協の建物の右側の斜面から、「海中盆綱引き」の引き手が海に走りこむようです。写真右端の白い平屋の建物は、波戸公民館です。その右、写真の端に鳥居の片脚が見えますが、少童(わだつみ)神社の一の鳥居です。
 内側の堤防のすぐ外に浮桟橋があって、そこに5隻のボートが繋がれていました。カッターというのだそうですが、真新しい感じがします。係の人が待機しています。
 そのうち写真奥の建物から子どもたちが続々と出てきて、カッターに乗り込み始めたのです。1隻に20人くらい、5隻だから100人くらいです。高校生のように思われましたが、今日は月曜日なので学校の授業があっているはずですが。
 生徒たちが乗り終わったカッターは、動力船に曳航されて外側の堤防の外に次々と出て行きました。カッターの後ろに書いてある文字は「波戸岬少年自然の家」とあります。何かの訓練なのでしょうか。
 カッターが全部出て行った後、「波戸岬少年自然の家」に行ってみました。玄界灘を見下ろすところにそれは建っています。広い運動場の向かいに建物があります。写真の左に管理棟、右に体育館が見えます。ここは主として青少年を対象に、自然の中での社会教育を行う施設だそうです。平成11年に開所しています。学校生徒の宿泊体験もあるようで、先程の生徒たちもそれかもしれません。
 この施設から直下の海岸に下りると、先程の5隻のカッターが見えました。このあたりは波戸岬と加部島に挟まれた海域で、すでにカッターの訓練が始まっていました。写真の奥の島は加唐島です。指導員の掛け声に、息を合わせてオールを動かしている様子が見えました。気候は良いし天気も良くて、生徒たちには良い体験になるのではないでしょうか。
 これはその翌日、鎮西町石室の城の元あたりでみかけた藤です。ゲートボール場の傍らにありました。結構勢いがあり、藤棚の大きさが合わなくなっている感じです。色も白と紫の対比がハッキリしていて見ごたえのある藤でした。唐津城の藤がこれくらいの勢いを取り戻すには、もう数年かかるような気がします。

 平成29年3月21日 肥前町 田野と新木場(にいこば)

 国道204号の古保志気(こぼしき)交差点から南に下りて高串漁港に着いたすぐの所です。写真左奥の陸揚げされている漁船の後方に防波堤が見えます。港の入口の突堤です。
 「渡錫(としゃく)の鼻」の地に立って海を望む、修業時代の弘法大師像です。弘法大師(空海)は、延暦23年(804)7月7日に遣唐使とともにこの地を出帆しましたが、途中暴風のために漂流し、唐の地、それも予定地から1千キロも離れた所に着いたのはほぼ1か月後のことだったそうです。
 唐津市立田野小学校です。ひっそりしていて、一瞬廃校かと思ったくらいですが、もう卒業式も済み、あとは修了式を待つだけという時期のせいかもしれません。卒業式は3月17日で、14名の卒業生が巣立って行ったそうです。1学年14名!そのせいでしょうか。
 高串漁港の南側岸壁から北側を撮った写真です。中央の青い建物は高串漁協です。左側手前の山腹に白い幟が2本見えるところが増田神社です。向こうの山に棚田と風力発電の風車塔が見えます。
 一番最初の写真の防波堤に戻ってきました。堤防の上に10体くらいの恵比寿さんが並べられています。写真の恵比寿は一番大きく、唯一着色されていました。大漁の時に作られたのでしょうか、豪快に笑っています。
 翌日22日にも肥前町に行きました。国道204号の途中で「白糸の滝」の看板が見えたので行ってみました。ここら辺は肥前町新木場です。しばらく走った細い道に入口の標識があって、そこから徒歩で150メートルくらい、雑木林の中に設けられたコンクリートの歩道を歩きます。歩道を覆う雑木が途絶えて視界が開けると滝壺が見え、この滝です。柱状節理の玄武岩が露出していて、その節理に沿って少な目の水量の二筋の滝が静かに落ちていました。滝の落差は24メートルとありました。玄武岩の崖は、写真の両側にも広がっています。
 高串港の奥の山腹に見えた棚田の一部です。棚田の整備があちこちで行われていました。ゆるやかな畔の曲線が美しく、一幅の絵のように見えます。曲線が美しく見えるのは、整備されたばかりの畔にはたっぷり水分が含ませてあることも一因かもしれません。今はその畔も機械で築くようです。

 平成29年2月19日 肥前町 星賀(ほしか)と納所(のうさ)

 星賀の区長さんに会いに星賀に向かったついでに、肥前中学校に寄り正門を撮りました。大きな体育館やプールもあったりして、なかなか恵まれた学校のように見えました。
 この写真の左側は入野小学校の玄関です。右側の坂の奥にあるのは肥前町の体育館で、手前は肥前町公民館です。これらもなかなか立派なものです。中学校も含め壁面が茶系で統一されているのは、同じ時期に建てられたのでしょうか。
 星賀港です。船が数十隻係留されていましたが、ほとんど他所の船なのだそうです。
 背景のつり橋は「鷹島肥前大橋」で、肥前町と松浦市鷹島とを結ぶ全長約1500mのつり橋です。立派なものです。
 翌日2月20日に納所東の区長さんに会いに行ったのですが、あいにく先方に急用ができてお会いできませんでした。なんでも宮崎からイノシシを取りに来ているそうで、そういえば入野の区長さんもそんなことを言ってました。宮崎からわざわざ取りに来るというのは、宮崎と何か深い縁があるのでしょうか。余談ですが、イノシシはメスの方がうまいそうです。
 写真は納所小学校です。

 平成29年1月24日 肥前町 大浦・満越(みつこし)周辺

 前日には唐津でも雪が降りました。今日も風が強くかなり冷たく感じる日でしたが、空にポコポコと浮かぶ白い積雲と、雲間から覗く青い空に誘われて、肥前町の大浦・満越周辺に行ってみました。唐津市街地から南西に向かい、竹木場小学校あたりから国道204号線に入り西に向かいます。切木小学校あたりから南に折れ、「国民宿舎いろは島」の標識に沿って坂道を降りていきます。
 写真の手前の棚田は、「日本の棚田100選」に選ばれている大浦の棚田の一部です。下に広がる港は大浦漁港です。右から伸びている半島のような地形の真ん中あたりに白い建物が見えますが、それは旧肥前町営「いろは島国民宿舎」です。
 「いろは島国民宿舎」を海側の砂浜から撮った写真です。この写真では壁面が白く見えてまだまだ新しい感じがしますが、実際にはかなり汚れた印象がありました。
 佐賀新聞の報道によれば、唐津市は市内にある他の国民宿舎「呼子ロッジ」と「波戸岬」とともに譲渡先を公募していて、「いろは島」は唐津市町田の日隈工業が譲渡先として選定され、市議会で決定されれば今年4月には経営が移譲されるそうです(11月25日付)。
 国民宿舎いろは島の前に広がる砂浜です。プライベート・ビーチのようにも見えますが、どうなんでしょうか。そんなに広い砂浜ではありませんが、松浦市の福島とに挟まれた内海となっていて、穏やかな海水浴場となっています。
 この国民宿舎いろは島の砂浜に向かって右側には島山島があります。ここは国民宿舎のある所から橋が架かっていて歩いて渡れます。看板には「ピーターパン 花と冒険の島」とありました。こちらにも砂浜が整備されていて、広さはこちらの方が広いようです。「花と冒険の島」というからには、子供たちや若いカップルが楽しめる施設や仕掛けがあるのでしょう。
 肥前町のいろは島展望所から見た風景です。中央あたりに見えている砂浜のある島が「花と冒険の島」島山島で、その右側に見える白い建物が国民宿舎いろは島です。日が陰って暗くなっていますが、なかなか良いところだと思います。
 左側の島々は唐津市内ですが、その奥は伊万里市となります。右側の島々は松浦市のいろは島の一部です。中央奥の台形の山は、伊万里市の大野山です。
 いろは島展望所から福島に向かいましたが、道すがら数基の風力発電が設置されていました。海を臨む高台なので立地としては好適なのかもしれません。白い羽が青空に映えていました。
 福島から見た大浦・満越周辺です。中央が大浦の棚田。海岸線の中央やや左の白い建物がいろは島国民宿舎。橋を隔てて「花と冒険の島」の砂浜と施設が見えます。手前の岩礁は、いろは島の一部で「兄弟瀬」と言われているものと思います。
 日隈工業さんには、この美しい自然環境を生かしたリゾート地づくりに、是非頑張っていただきたいと願っています。

 平成28年11月13日 相知町の炭坑遺跡

 相知町の鵜殿窟(うどのいわや)に近い西和田にはいくつかの工場がありますが、そのひとつに三栄興産株式会社という麦茶や健康茶の工場があります。この写真は、その工場の事務所前に建てられた石碑です。
 往年この地は三菱商事の相知炭坑だったところで、その炭鉱は昭和8年に閉山しましたが、その後紆余曲折があって、最終的には昭和37年に炭坑の操業を完全に停止しました。その跡地を活用して昭和40年に建てられたのがこの工場です。
 この工場が建てられるにあたり、当時の三菱鉱業(株)と相知町とが、相知炭坑の中心点であった竪坑跡に建てたのが写真の石碑です。表に「三菱相知炭坑竪坑跡」とあり、裏に当時の相知町長による碑文が刻まれています。この地での石炭産業の隆盛とそれに関わった人々の暮しを偲ぶものとなっています。
 写真の遠景の山は作礼山です。白い大きな建物は冬野病院です。田んぼの中に円筒形の人工物があります。直径5メートルくらいでしょうか。撮影地点の背後の田んぼにも、同じようなものがもう一基ありました。
 これは給水塔の名残だそうで、三菱の社宅や炭坑住宅に飲料水を供給するための施設だったようです。今は、上部が完全にふさがれ、往年の栄華をとどめるのみです。
 和田山神社の鳥居です。奥に拝殿があり、そのまた奥に佐賀ロイヤルゴルフクラブの練習場の金網が見えます。
 この鳥居は、三菱唐津鉱業所が昭和3年に立てたものです。拝殿の奥にある本殿も、三菱相知炭坑従業員と関係者が建立したもので、この神社自体が明治33年の三菱の進出に伴い、三菱によってこの地に建てられたものとされています。ちなみに祭神は大山祇命という山の神様です(相知町史)。
 境内は良く整備されていますが、イノシシのものと思われる足跡がくっきりと残されていたり、ブヒブヒと鼻で土を掘り起こしたような形跡があって、早々に退散しました。
 これは相知温泉天徳の湯の源泉です。佐賀ロイヤルゴルフクラブの駐車場の片隅にあります。このゴルフ場は平成元年に開場していますが、そのゲストハウスのお風呂にはこの温泉が使われているそうです。
 この近くに「おうち温泉天徳の湯」という温泉施設があります。もとは相知町営で平成11年の開設だそうで、今は民間に運営が委託されていますが、その温泉も同じ源泉を使っています。温泉はアルカリ性単純温泉で湯温は41.6℃。
 この温泉施設とこれに隣接する運動公園あたりは、昔ボタ山だったそうです。巨大な炭坑遺跡と言えます。

 平成28年10月16日 七宝丸の初お披露目

 西ノ門の館に行ったとき、江川町の法被を身に付けた2~3人の曳き子たちがやってきました。聞けば、七宝丸が戻って来る、ということでした。
 たまたま今日は、総塗替えを終えた七宝丸のお披露目の日だったのです。式典に続き町廻りをして西ノ門の館に戻って来るところでした。なんという幸運でしょうか。
 やがて聞きなれた競り曳山囃子に乗って、西ノ門の館に七宝丸が入ってきます。
 塗り替えられた漆は、落ち着いた輝きを放っていました。
 龍体の以前の色は緑系でしたが、新しい色はなんと言ったら良いのでしょうか、深い色合いが七宝丸に風格を与えているように思われます。塗り替え作業の中で、表面の漆を剥がした時に下から現れた元々の色だったとされています。
 金色の部分も、屋形の屋根も、すだれ様のものも、全てが新しくなっていています。
 これは昨年の七宝丸です。龍体の色、金色や朱色の艶、屋形の屋根(火焔)の下側の模様など、その違いがわかると思います。
 この日、七宝丸は「曳山の蔵」に曳き入れられました。この後餅まきがあってお披露目のフィナーレを飾りました。
 画像をクリックすると画像が大きくなります。今、私のパソコンの画面を飾っています。
 もうすぐおくんちですね。天気に恵まれることを願っています。

 平成28年10月15日 相知町(おうちちょう) 相知くんち

 相知くんちを見に行きました。
 巡行が始まる前の熊野神社の鳥居前です。奥の方に山笠3台が勢ぞろいしていました。
 左は上組、右は下組で、真ん中は飾り山です。高さは、上組が6メートル、下組が少し高くて7メートル、飾り山は9メートルくらいあるように思われます。
 飾り山の表山の題目は「関ヶ原の戦い」、裏山は「西遊記」でした。
 この場所は、相知市民センター(旧相知町役場)前の交差点です。
 行列の先頭は、相知くんちを特徴づける羽熊(はぐま)行列。その後に稚児行列と御神輿行列。さらにその後に、相知町中山に伝わる中山浮立の鉦・太鼓が続きますが、写真には入っていません。
 上組の山笠。表山の題目は「那須与一 扇の的」、裏山は「耳なし芳一」。耳なし芳一の怖い話は、今の子供たちも知っているのでしょうか。
 上組・下組ともに車輪は6輪で、直径は約50cm。やはり真ん中の車輪だけ直径を少し大きく作られています。いずれも鉄製のようです。台車の上には長い4本柱が組み付けられていて、浜崎祇園山笠から影響を受けていると言われています。
 下組の山笠。表山の題目は「伊岐佐の戦い」、裏山は「相知治水の誉れ」。こちらは地元の歴史が題材になっています。
 表山ではこの地の武将の相知蓮賀、裏山では松隈杢右衛門と進藤確斎の人形が飾られていました。
 山笠が通り過ぎた後、この交差点で踊りが始まります。大野大黒舞のご婦人方です。相知町大野の目出度い踊りだそうです。大黒さん役のご婦人が餅を撒いていました。カメラを覗いていた私に、二つくらいの餅がぶつかりましたので、何か良いことがあることを期待しましたが・・・。
 相知駅近くの休憩地点から熊野神社の方に戻る山笠。下組が先になっています。左の高い山は作礼山です。出逢橋付近から撮っています。
 出逢橋から宿通りをもっと熊野神社寄りに戻ったところです。奥に岸岳が見えるところで撮りました。
 熊野神社を通り過ぎ、山崎河原御旅所に向かう途中の羽熊行列です。奴さんたちの雄姿を撮っておきました。
 手前に挟み箱がふたつ、後ろに毛槍が4本。奴さんたちは掛け声をかけ、膝が水平になるまで足を挙げながらゆっくりと進みます。合図の声とともに持ち手の交替をしますが、挟み箱も毛槍も投げ渡しです。特に毛槍は垂直に保ったまま投げ渡さないと、受け手が大変な事になります。重さ20kg、長さ3.5mなので、倒れかかるととても一人では支えられないのです。そのせいもあって、1本の槍に3人の奴が付いています。
 この羽熊行列は国内でも珍しく、相知くんちに風格を添えているように思います。

 平成28年9月26日 肥前町鶴牧 にあんちゃんの里

 私は「にあんちゃん」という映画があることは知っていましたが、まだ見たことはありませんでした。肥前町の取材のためには是非見なくてはと思い、唐津市立近代図書館で尋ねたところ、貸出禁止のDVDがあることがわかりました。しかし上映会がない限り見ることができないとのことでした。

 今日は、納所くんちのことを聞くために肥前町市民センターに行きました。
 センターは合併前に建てられたようですが、文化会館を併設した大きな3階建ての建物です。合併した今、働いている職員も少なくなり、どうしようもないことですが勿体ない空間が遊んでいました。
 眺めもとても良いところです。写真はセンターの裏側、つまり長崎県の鷹島側の景色です。中央部分は晴気(はれぎ)港、左側の遠景には長崎県の福島、飛島、そして松浦市の山並みが見えています。

 納所くんちのことについては、市役所本庁に詳しい人がいるということで紹介してもらいましたが、そこで思わぬ拾いものをすることができました。このセンターのロビーに大型のテレビが置いてあり、その前に「映画『にあんちゃん』を上映できます」と書いた紙が貼ってあるではありませんか。
 早速係の職員にお願いして、独り映画鑑賞です。
 親を失った朝鮮人兄弟が、経済的には過酷な目にあいながらも周囲の人に助けられ、兄弟同士で支えながら、力強く生きて行く姿を描いています。当時この映画を見て勇気づけられた若者が、数多くいたことが想像されます。
 中には唐津市街の風景が出てくるシーンがあって、大砲がまだ据えられている唐津城址の本丸広場、松浦橋、舞鶴橋、中町の街角、旧東唐津駅など、懐かしい思いもしました。

 これが肥前町鶴牧の大鶴に建てられている「にあんちゃんの里記念碑」です。『にあんちゃん』の作者・安本末子の同級生たちが、平成13年(2001)に建てたものだということです。
 右の像が作者・末子、左の像が主人公・にあんちゃんです。どちらも素朴で良い感じです。旧友を懐かしみ、この地を懐かしむ同級生たちの想いが良く表れている石碑だと思いました。
 この石碑には、にあんちゃんの卒業の日の日記が刻まれています。兄弟の中でも年が近く、一緒に苦労し一緒に楽しんだ兄を思う気持ちが溢れているようで、この作品の全てを凝縮している一節であるように思います。

 これは、にあんちゃんの父親や兄が働いていた大鶴炭鉱の第二坑口跡です。今は田んぼの片隅に埋もれています。
 この坑口の裏側に「大鶴炭鉱第二坑口」という小さな標識が立っていますが、間違いなく一時の唐津を支え、一時の日本を支えた産業の遺跡です。そうした簡単な標識ですまされてしまうような遺跡ではないと思います
 不幸にして暗黒の中で生涯に残る傷を負い、あるいは命を落とした人たち、その陰で苦労を背負うことになった家族たち。そうした人々の慰霊碑としても慰労碑としても、大事にしなければならないという思いを強くしています。

 写真は今の大鶴の風景です。記念碑には「当時4千人もの人が居住した大鶴の地も今や50人程の人・・」とありますが、現在は50人足らずとなっています。
 写真右手前のグレーの部分は太陽光発電施設、遠方の山の上からは風力発電の風車の羽根が覗いています。時代は石炭から石油、石油から再生エネルギーです。
 大鶴も時代とともに生き続けています。


 平成28年9月25日 肥前町納所(のうさ) 納所くんち

 肥前町の北西端に位置する納所地区。その真ん中あたりにある住吉神社の、今日は秋季例大祭-納所くんち。本来なら2台の山笠が曳き出されるところですが、残念ながら今年は「ガメ踊り」だけの奉納でした。

 拝殿で神事が行われている中、東組と西組との囃子手たちが境内に居並び、神事に参列しています。双方とも10人くらいでしょうか、それぞれに揃いの法被を着込んでいます。緑色の東組の法被には「東」と龍の絵、紫色の西組の法被には「西」という文字が染めこまれています。
 ガメ踊りの演者たちはこの時、別の建物の中で踊りの支度に大わらわ。ゴザをかぶるとか体を縛り付けるとか、とても一人ではできない作業のように思われます。
 左の巨木はクスノキで、佐賀銘木100選のうちのひとつ。樹高16m、幹回り3.9m、枝張り22m、樹齢700年の古木です。

 神事が終わると、西組と東組のお囃子の競演です。大太鼓1、小太鼓1、鐘1、そして笛約10。何曲か演奏された中の最後の曲は、東西共に唐津くんちの競り曳山囃子に似た曲でした。
 その後、仲間に手を引かれて踊り手が登場し配置につきます。男の顔のゴザをかぶる2人と、女の顔のゴザをかぶる2人です。いずれも男が演じます。
 男役はゴザをかぶっている以外不自由はないのですが、女役は大変です。足は膝が離れないように太ももを縛られ、腕は手首から上を体に縛り付けられているため自由が利かず、写真右端の女役のように仲間に抱えられて移動しなければなりません。











 そんな奇妙な格好をした踊り手4人が、お囃子に合わせて躍ります。女役は、膝から下だけでステップを踏み、手首から先だけで御幣を振っているため、動きが小さくコケティッシュで、女のしとやかさとかわいらしさを出しているようです。
獅子舞は今年から踊りに加わったようで、青い衣装の黒髪の赤獅子と赤い衣装の白髪の赤獅子の2頭です。誰それ構わず見物客の子供の頭をかじりに行くので、小さい子供は恐怖の悲鳴をあげていました。

 住吉神社から次の場所に行くのに道を間違えて、納所半島の西側にある駄竹(だじく)の港に出てしまいました。
 しかし、その海岸通りを走っていると思いがけないものを見ることができました。道路沿いに広げられた黒い敷物に、白っぽいものが敷き詰められている光景です。白っぽいものの正体はシラスです。この季節、このあたりではシラス干しが盛んだということです。
 そこに獅子舞の獅子子が、ガメ踊りの奉納を終えた住吉神社から軽トラックで駆けつけて来ました。オレンジ色の獅子舞の衣装をつけた二人組がそれです。

 軽トラックに乗っている時、獅子子は獅子頭を外しているので、子供たちに「バレバレじゃん」と冷やかされていましたが、それにもめげず子供たちに噛み付き、子供たちも喜んでいるのでした。
 そこに折悪しく雨粒が落ち始め、大急ぎでシラスを片付け始めました。幅約5m、長さ約30~40mに広げられたシラスの片づけは簡単ではありません。それでも黙々とキビキビと撤収作業は進められていました。
 作業をしているのはご婦人方と子供たちだけです。大人の男どもがいないのは、納所くんちに駆り出されているからでしょう。

 みんなが雨仕舞いに忙しい中、この女の子は棒切れを持って遊んでいるのでしょうか。そうであっても許されるとは思いますが、そういうわけではありません。シラスを狙っているカモメを追い払っているのです。みんなシラス干しを手伝っているわけです。
 ちなみに、肥前町にある「玄海すし」で昼食を取りましたが、釜ゆでのシラスが一握り小鉢に入っていました。一匹一匹の肉の厚みを感じさせるほどの新鮮さに感激したのは言うまでもありません。

 平成28年7月23日 徳須恵祇園祭を見に行きました

 出発前の祇園山笠です。八坂神社(天満神社)前の空き地に建てられた小屋で組上げられたようです。右の小さい山笠は子供山笠です。
 今年の外題は、表山は『賤ヶ岳の戦い 黒田官兵衛奮戦の場』、裏山は『愉快な仲間たち』。子供山笠は『那須与一 扇の的を射る』。
 外題に基づいて、山笠の立体的な構想や山笠を彩る人形や飾り物の製作は、「山師」と言われる専門職の方に委託されるそうで、徳須恵祇園山笠保存会はそれを賃借して組上げている、と今回から同会会長を務める小杉正臣さん(70)が教えてくれました。

 今日23日は午後5時出発。山笠は、小屋からすぐ前を通る国道202号線に曳き出されます。高さ5~6メートル、長さも5~6メートル、幅は3メートルくらいでしょうか。
 車輪は6輪で、浜崎祇園山笠や厳木町の中島山笠と同じように、真ん中の車輪だけ直径が少し大きく作られています。車輪の直径は思いのほか小さく30数センチで、道路事情の悪かった終戦後でも同じだったのでしょうか。
 台車には、囃子手の子供たちが乗り込んでいます。


 国道に出てからすぐの「徳須恵」交差点で右に曲がり、石炭時代まで栄えた元商店街に入ります。山笠には古い家並が似合っています。
 曳き子が着ている法被は、大人用・子供用ともお揃いで新調したもので、今回が初お披露目だそうです。
 囃子は大太鼓、締太鼓、鉦、笛、三味線で、すべて子供たちが担当しています。曳いている時の曳山囃子は、唐津くんちの競り曳山囃子に良く似ていましたが、かなり情緒のある調べになっていました。

 山笠は、同じ方向に向かう車を従えながら国道202号を進みます。写真の背景は霧差山。この山の高い木のない薄い緑の部分は、茶畑になっています。
 この高さの山笠では、行き先を示す大型の道路標識にはぶつかるので、その近くに来ると反対車線に移ってかわしています。
 周囲には音を遮るものが少ないので、曳山囃子は遠くに広がり、山に吸収されて行くようです。



 徳須恵上」交差点を通過する山笠。左に見える遠くの山は、北波多の象徴岸岳です。
 この交差点を過ぎると、唐津炭坑の跡地に広がった新興住宅地である立園地区、千草野地区の方に向かいます。昔、このお祭りは徳須恵地区だけの祭りでしたが、今ではそうした地区の協力も得ているそうで、保育園児たちも子供山笠を楽しみにしているそうです。
 唐津炭坑が盛んだったころは、山笠は2台作ったということですが、小杉・新会長は見たことがないと言っていました。石炭時代も、もうそんな昔になってしまった、ということなのでしょう。

 平成28年6月19日 相知・見帰りの滝 あじさいまつり

 相知町伊岐佐にある見帰りの滝で「あじさいまつり」が開催されていました。見たことのなかった滝と、鮮やかに咲いているだろうあじさいに惹かれて行って来ました。
 見帰りの滝は、松浦川の支流である伊岐佐川の上流、伊岐佐ダムのすぐ下流にあります。日曜日のためか見物客は多く、駐車場の車はほゞいっぱいでした。

 車を置いて道を奥の方に歩き始めると、道々にあじさいが植えられていて花を咲かせていましたが、残念ながらやや見頃は過ぎたような感じでした。川沿いの、あじさいに囲まれた遊歩道もあるようですが、足元が悪いためか通行止めになっていました。
 駐車場から上り一方の1400メートルの地点にその滝はありました。まずは吊り橋のあじさい橋からの眺めです。ここからでもなかなかの滝です。下流の水が濁っているところを見ると、午前中の雨はこのあたりでも降ったようで、水量はいつもより多いのかもしれません。

 近づいて行くと、滝の迫力は増してきます。水の落差は100メートルで九州一ということです。下から見る感じでは、三筋の細い滝がひとつに合流して滝ツボに落ちるという風です。男滝、女滝という言い方もあるようで、水量によっては二筋の時もあるのでしょうか。水が岩に撥ね滝ツボに落ちる様子に見入り、その轟音に聞き入りながら、これから伊岐佐川を下り、松浦川を下り、唐津湾に注ぐ水の行く末に思いを馳せていました。











 下り一方の帰り道をスイスイと歩いて上り用シャトルバス乗場付近まで戻ると、近くのほたる橋付近に見事なあじさいの植栽がありました。ひとつは山の斜面にツツジの様に植えられた100株以上のあじさい。もうひとつは妖しい雰囲気をかもす赤い色のあじさい群です。











 平成28年5月25日 北波多徳須恵

 旧北波多村の徳須恵(現在は唐津市北波多徳須恵)に行ってみました。

 まずは、徳須恵祇園祭の祇園山笠の奉納先である八坂神社です。鳥居が2基あり、手前には「天満神社」、奥には「八坂神社」の扁額がかかっています。鳥居に向かって左側の建物は徳須恵公民館です。
 奥に社殿がありますが、小さいながらも地元の人たちに懇ろに祀られている雰囲気を感じさせます。以前の境内はもっと奥行きがあったのですが、裏を流れる徳須恵川の護岸工事のために削られてしまったようです。












 八坂神社の近くに、徳須恵川をまたぐ徳須恵橋がかかっています。昭和53年の竣工とありますが、長さ数十メートル程度の橋ながら、車道と歩道とが別の橋になっていて、特に小中学生の通学の安全が図られています。
 橋の四隅の親柱には、それぞれカッパが立てられています。こちら側、つまり徳須恵側には女のカッパ2体、岸山側には夫婦のような男女のカッパでした。これらのカッパにはそれぞれに名前がつけられていて、写真左の奥が"茶子"、手前が"玉ちゃん"、写真右手前の男カッパは"ごん太"、奥の女カッパは"はたママ"でした。
 奥の、鉄塔のある山は霧差(きりさし)山(唐津市石志、209.6m)です。頂上付近に茶畑があるのがわかります。曇っていた空に晴れ間が現れ、視界がききそうなので登ってみることにしました。












 茶畑に入る前で車を降りて登って行くと、徐々に徳須恵盆地が見えてきます。真ん中の川が徳須恵川で、写真中央の橋は「上徳須恵橋」、その手前の橋がさっきの「徳須恵橋」です。左上の遠景の山は先月登った伊万里市の大野岳で、この位置から頭を30°くらい左に振ると、岸岳が視界に入ってきます。
 もうここら辺りのお茶は一番茶の茶摘みは終わったのでしょう、麓の岸岳ふるさと館で唐津茶の新茶が売られていましたから。この時期の輝くような若い緑の葉は、二番茶となる次の新芽を作り出す準備に入っています。

 不思議なことに徳須恵には、明治期ころからの古い民家が残っています。北波多市民センターの近くにある「草伝社」は、内部を改装して唐津文化の発信拠点としたものです。特に、岸岳周辺に窯元のある唐津焼が展示されていて、お茶もふるまわれているようです。写真などの展示会も時々催されています。






 下の大きな古民家は現在も使用されていますが、大きく張り出した軒を支えるために長い腕木が伸びています。腕木の下にはそれを支える装飾的な方杖(ほうづえ)が取り付けられていて、その腕木と方杖の間の三角形の板には、手前に「泉」、奥に「屋」という文字が透かし彫りになっています(写真右)。「泉屋」という屋号の染物屋を営んでいたようです(『北波多村史 自然、集落誌、民俗編』)。この部分に屋号の透かし彫りがあるのは珍しいと思うのですが、当時からあったものかどうかは残念ながら確認できませんでした。












 下の左の写真は珍しい造りの三階建ての建物で、大正昭和初期には「三階」と呼ばれていて、時計屋さんだったようです(同上)。洒落た雰囲気を出していたのではないでしょうか。
 この「三階」から西(写真手前)に延びる道筋(写真右)は、大正昭和初期にはギンザと呼ばれる繁華街を形成していたそうで、同じような古民家が今も並んでいます。近くに久春亭という遊郭もあった、と後でわかりましたが、残念ながらそこは通らなかったようです。












 最後に岸岳です。徳須恵橋の近くで撮りました。中段の大きな複数の建物は、岸山工業団地の工場群です。

 平成28年4月20日 北波多志気のシャクナゲ

 唐津観光協会の「花咲く唐津 花めぐりマップ」を見ると、4月中旬には北波多志気(しげ)のシャクナゲが見頃とあったので行ってみました。

 北波多志気は唐津市の西南部にあり、伊万里市と市境を接しています。唐津の中心地からは国道202号線を伊万里方面に走り、北波多徳須恵の町並みを通過し志気トンネルを抜けると、すぐに「シャクナゲ」の標識に誘われて左折します。
 志気の集落で駐車場に車を止めて歩くとものの2、3分で、ある民家の庭のような所に出ます。庭の端は長さ20メートル、深さ最大5メートルほどの谷状の窪みがあって、その谷の正面の斜面に全部で20株ほどあるシャクナゲが、淡いピンクの花を咲かせていました。

 傍に立てられている説明板によれば、江戸時代の寛政のころ(1790年代)、唐津城の石垣修理に従事した川添源衛門(この民家のご先祖?)の見事な仕事ぶりが認められ、時の家老・二本松大炊から城内にあったシャクナゲの小株を褒美として賜り、庭に植えていたものだそうです。
 樹齢200年を越えているものもあるということなので、その時のシャクナゲが未だに見事な花を咲かせているということなのでしょうか。説明板には、全部で三十数株あると書かれていました。

 志気の集落から、鏡山のような台形の美しい山が見えました。私は、この山は岸岳だと思い込み、ここから見える「岸岳」はこんなに美しいのだ、と感心し写真を撮りました。ところが、パソコンでその写真を良く見ると、頂上付近に鉄塔が2本立っているのです。あの岸岳に人工物を立てたのか、あるいはこの山は別の山か、と気になり、北波多の市民センターに問い合わせると、志気から岸岳は見えない、その山は伊万里市の腰岳ではないか、という返答でした。地形図やグーグルで調べてみるとその山は、志気から見ると南西方向にある大野岳(伊万里市)という山のようです。

 大野岳(424m)は、戦国時代には岸岳城主の波多氏が烽火場として利用した、と伊万里市のホームページに書いてありました。それで早速大野岳に行ってみました。

 北波多志気から見ると見事な台形の大野岳も、その東側にある「道の駅」から見ると、痩せた三角形の山にしか見えません。岸岳と同じような形をしているでしょう。
 車で頂上まで行けるのですが、大野岳の南側の斜面を走る上、頂上でも樹木のために、志気のある北側の展望は全く開けませんでした。仕方なく山を下りたのですが、せめて北側の山裾を走る道を選んで通ってみました。

 すると左の写真のように視界が開けた地点がありました(写真をクリックすると説明付拡大写真となります)。写真中央の平坦地は伊万里市南波多町水溜というところで、真ん中に水量の少ない徳須恵川が奥に向かって流れ、左に蛇行しているのが見えますが、さらに右に左に蛇行して北波多徳須恵に達します。
 志気の集落が送電線ごしに見えました。私がその山容に感動して、岸岳と思いこんで大野岳を撮った地点も特定できました。
 この写真の撮影地点は標高わずか150m位ですが、志気の集落を抱いた山並みの向こうに岸岳(320m)が見えていました。岸岳城から上がる烽火は、確実に大野岳頂上の監視役に届いたであろうことを確認することができました。

 平成28年2月25日 厳木町(きゅうらぎまち)広瀬の天山神社

 厳木町中島の中島山笠祭の取材のついでに、厳木町広瀬にある天山神社に行ってみました。

 隣の多久市と境を接している厳木町中島から、唐津街道を離れて厳木川を少し遡ると、厳木町広瀬に入ります。バスの路線となっている道路を通って厳木川の川筋に向かうと、「天山神社」というバス停があります。そこから右に折れて、鳥居が2基並んでいる田んぼの中の細い道を進むと、奥の左手に天山神社がありました。どっしりとした肥前鳥居が、風格のある姿を見せていました。




 長い参道の向こうに、もうひとつの鳥居が立っていて、その奥に拝殿があります。参道の横には、大きめの神楽殿がありました。
 「由緒書き」によれば、藤原安弘が大宝元年(701)に創建したものとされ、天之御中主命(あめのみなかぬしのみこと=天地創造の原初の神)を主祭神としていますが、この神を主祭神とする神社は全国的にも珍しい、と書かれた本があります。
 この神社には宮司さんがいて、厳木町一帯の神社の宮司を兼任しているそうです。



 境内には、八幡神社、八坂神社、黒尾神社、宮地獄神社、天満宮がありますが、八幡神社と宮地獄神社の祭礼には、県の無形文化財となっている広瀬浮立が奉納されます。
 参道は天山の方向に伸びていますが、この神社は天山神社の下宮のひとつにあたり、上宮は天山頂上にあるようです。中宮と他のふたつの下宮は小城市側にある、と由緒書きには書いてありました。



 下の左の写真は、天山神社付近から見た天山です。中央の高い峰は雨山(996m)で、その左側奥の峰が天山(1046.2m)です。天山頂上は、唐津市、多久市、小城市、佐賀市の四つの市境が集まっている所です。
 右の写真は厳木町中島から見た天山です。やはり一番高く見えるのは雨山で、その左側の峰が天山です。この山塊の手前の麓付近に見える、水平に横たわった白い構造物は、昭和62年3月竣工の厳木ダムです。











 平成27年12月24日 相知(おうち)図書館の特別企画展

 今年7月に、「明治日本の産業革命遺産 ~製鉄・鉄鋼、造船、石炭産業」が世界遺産に登録されることが決定されて話題になっていますが、これを受けて相知図書館で開催されていた特別企画展を見るために相知に行きました。特別展のタイトルは「相知町に残るもう一つの産業革命遺産展~幕末から明治にかけての相知の石炭産業~」です。

 相知駅です。いつごろ建てられたのでしょうか。小さいけれど洒落た駅舎です。駅員は、委託職員と思われるおばさんがひとり務めていました。








 以前の町役場、今の相知市民サービスセンターの裏手の厳木川。橋の名前は「浦の川橋」。向こう側に見える山の中で一番高い山は作礼山(さくれいざん887m)のようです。
 この厳木川は、幕末期から明治にかけて石炭の運搬に重要な役割を果たしていました。というのも、相知や厳木で採掘された石炭は、この川の岸に設けられたいくつかの集積場(土場)に集められ、川舟で松浦川河口の満島などに運ばれていました。



参考文献「梶山村庄屋文書」「日本石炭産業分析」

 相知市民サービスセンターの並びに相知図書館があります。その2階が特別企画展の会場です。
 「明治日本の産業革命遺産」としては全国で23件登録されていますが、その中で実に17件が九州に集中しています。全体の三分の二です。製鉄・鉄鋼分野で北九州市の官営八幡製鉄所など、造船分野で佐賀の三重津海軍所跡などとともに、石炭産業分野では長崎の軍艦島や三池炭鉱が登録されています。
 残念ながら、相知や厳木(きゅうらぎ)や北波多などの石炭産業はこの中に含まれていません。しかし、展示されていた円グラフ(クリックすると拡大)に示されているように、幕末(おそらく安政以降)の唐津炭田からの出炭量は、筑豊炭田や三池炭田を押さえて全国1位でした。安政6年(1859)長崎で6万トンもの需要があったとき、その7割の4万2千トンを唐津炭田から供給したとされています(『日本石炭産業分析』隅谷三喜男著)。
 唐津炭田は、唐津藩自身は勿論、薩摩藩や肥後藩、筑後藩、肥前(鍋島)藩などによっても開坑され、明治日本の産業革命を先導する役割を果たし、また産業革命の一端を担ったといえます。その意味で、例え世界遺産に登録されていなくても、唐津炭田の存在は記憶しておくべきものだと思います。

 相知図書館の国道を挟んだ向こう側に熊野神社があります。この神社の秋季例大祭が「相知くんち」です。今年10月10日にここを訪ねた時は、この鳥居前の広場にほぼ完成した様子の山笠が3台並んでいました。両脇の2台の高さは約6メートル、真ん中の1台は約10メートルほどでした。





 相知駅の跨線橋から西側、つまり唐津方面。
 左側に田んぼが広がっています。右奥の山は岸岳です。この岸岳のさらに右側に「ドウメキ」という所がありましたが、そこは唐津藩で石炭が発見された場所です。






 正午前に相知駅から乗車すると車内はすでに満席。高校生が多数で、バッグにKYURAGIとあったので厳木高校の生徒でしょうか。途中の山本駅でまた高校生が乗ってきました。KTH、つまり唐津工業高校の生徒でしょう。リケジョもいました。
 ところで、相知の踏切近くで見つけたようかん屋で、昔ながらの外側が固く内側は柔らかい羊羹を買いました。藤田小城羊羹本舗という店で、古くからやっている店だそうです。甘いものに目がない私の奥さんは、1本千円だろうと言っていましたが、実は450円でした。得をした気分です。「また行ったら買ってきて」とリクエストをもらいました。

 平成27年10月7日 鳥巣天衝舞(とりすてんつくまい)

 今日は良い天気に恵まれました。午後2時から始まる鳥巣天衝舞(とりすてんつくまい)を見るために、先々月に続き再び浜玉町鳥巣に行きました。公民館では、子供たちや大人たちが準備に余念がありません。

 午後2時になり、まずは公民館前でお披露目をします。大人たちの笛の音に合わせ、4つの鉦と2つの締太鼓(むらし)、1つの大胴(脇に抱える鼓)、2つの小鼓でリズムを刻みます。そして、三日月のような被り物(テンツキ)をつけた主役が大太鼓を打ちながら舞います。主役は太鼓の向こうにいるため、姿は見えません。笛以外は全部子供たちで、中には未就学の子供もいたように思います。

 その後、2本の傘鉾を担いだ長老を先頭に行列を作り、曲(「道行」)を奏でながら天満宮に向かいます。通り道の脇には大きな幟が4対ほど立てられていて、村の祭りの雰囲気をかもしだしていました。
 祭りを仕切る長老たち、笛を吹いて祭りを支える大人たち、そして音曲と舞を担当する子供たち。昔ながらのお祭りが息づいています。



道程の半ばの幟が立っているところで休憩かと思ったら、ここでも一曲(「ひらのばやし」)踊ります。しかし、主役は道の外側に向かって太鼓を打つので、この時も彼の表情を見ることはできません。なんでもこの主役は、住民の方のご長男がやることになっているそうです。今年の主役はどなたのご長男でしょうか。そう言えば、誰かが「Y君」と声を掛けていましたっけ。小学校5年くらいの少年です。



 天満宮の鳥居の傍でもう一曲(「とりいがかり」)を舞います。主役は頭を良く振るので、被り物がずれてきてやり難そうですが、でも一生懸命にやっています。かなり練習したのでしょう。長男がやるということは、次のどこかの長男が主役を務められるようになるまでは、この子がずっとやるということになるのでしょうか。そう言えば、女の子は参加していません。男たちの祭りです。神事の伝統が守られているのだと思います。



 鳥居の傍での舞が終わると、鳥居をくぐり石段を登って境内に入ります。境内を3周した後、拝殿に向かって左側に鉦が並び、右側にゴザを敷いて締め太鼓と鼓が座り、大太鼓が境内の真ん中にデンと据えられます。笛は拝殿の左傍に陣取っています。
 ここで五穀豊穣と悪疫退散を祈念する天衝舞(「神の前」と「まくり」)の奉納です。




 舞の主役の頑張り所です。昼下がりの木漏れ日を浴びながら、テンツクを振り太鼓を叩き、時に側転をします。
 テンツクの紙飾りは八方に飛び散ります。太鼓を打つバチは思いのほか短く、20センチくらいでしょうか。その手元の端には飾りがついていて、太鼓を打ちながら震わせていました。
 お年寄りと壮年と子供たちが力を合わせて奉納する天衝舞。こんな所で育つ子供たちは幸せです。見ている私も幸せな気分でした。
 そういえば、この鳥巣地区の住居地図がどこかの壁に掲示されていました。誰が何処に住んでいるかわかるのですが、そこに書かれた名前はほとんど姓がなく名前だけなのです。これだけ見ても、この地区の雰囲気がわかるような気がします。

 平成27年8月27日 浜玉町鳥巣(はまたままち・とりす)

 浜玉町鳥巣は、浜玉町の東のはずれにあり、北東は七山、南西は厳木町に接しています。浜崎方面から車で行くと平原(ひらばる)を過ぎてからしばらく登り道が続き、それから一旦七山の領域に入り、3人乗りの軽自動車では喘ぐほどの、チョットきつい登り坂を登り切って椿山溜池まで来ると浜玉町鳥巣で、その先下り坂となって鳥巣の集落に至ります。鳥巣は浜玉町の飛び地で、周囲は七山地区と厳木地区に囲まれています。
 例によって暑い日でしたが、鳥巣は涼しいところでした。聞けば、標高620メートル。鏡山(283メートル)よりも高い位置にあるのです。涼しいはずです。溜池に着く直前の七山地区には別荘風の建物が、道路際に数棟建っていましたが、避暑地として使われているのでしょう。1棟が売りに出されていました。
 浜玉町鳥巣(宇土集落を含む)の現在の人口は28世帯、107人です。10年前の平成17年初頭では30世帯、144人となっています。世帯数はあまり変わりませんが、人口は3割ほど減少しています。

 左側の写真は、明治30年に開設された平原小学校の旧分校跡地です。昭和61年には右側の写真の新校舎が建ちプールも作られるなど、僻地教育のモデルケースとして力が入れられていたことが、平原小学校のホームページから伺えます。
 旧分校跡地には、跡地であることを記念する堂々とした石碑が建てられています。分校創立100周年の平成9年に建てられたものですが、刻まれた「希望」という字にどのような想いをこめたのでしょうか。新校舎は、平成26年3月に閉校になっていました。なんと昨年の話です。
 中学校は現在、浜玉中学校の校区です。昭和62年、浜玉中学校に寄宿舎が建ち、鳥巣の生徒たちは親元を離れてそこから通学していましたが、平成20年には寄宿舎は閉鎖されました。今はどうしているかと言うと、4台のスクール・タクシーに分乗して通学しているそうです。

 鳥巣集落のはずれに天満宮があります。寛政7年(1795)の創建とされていますから、比較的新しい神社です。小さいがどっしりした石造の鳥居をくぐって石段を登ると、境内の広場の奥に拝殿、左手に舞台があります。
 この境内では、旧暦8月25日に「天衝舞(てんつくまい)浮立」の奉納があります。今年は10月7日とのことです。天衝舞の担い手は小・中学生で、大太鼓、小太鼓、小鼓、大鼓、鉦、笛などの演奏で、太鼓を打つ主役がテンツキと言う三日月状の前立てのある被り物をかぶり、直径1メートルほどの大太鼓を打ちながら踊るのだそうです。

 椿山溜池は、水争いを避けるために昭和17年に着工し敗戦を挟み昭和21年に完成したものです。浜玉町平原の今坂地区の人が中心となって建設したもので、鳥巣にとっては土地を提供しただけだったそうです。確かに鳥巣地区にも豊かな田んぼがありますが、その水利は宇土地区あたりから端を発し、この溜池を水源とする厳木川に合流する小さな川から得ているようです。
 高冷地であるためみかんは育たず、今では花卉類の栽培が盛んであるようです。


 平成27年7月25日 浜崎祇園祭の準備風景

 車で浜崎へ。まだ交通規制がかかる前の時刻でしたが、臨時駐車場はオープンしていました。海岸近くの駐車場に停めましたが、この日は良い天気で浜崎から見る唐津湾もなかなか良いものです。
 青い空の下、穏やかな波の水平線上には白い帆のヨットが無数に出ていました。日本財団主催による、420クラスのヨット世界選手権大会の今日が最終日です。大会名を英語では420 CLASS WORLD CHAMPIONSHIPS 2015, Castle Bay Karatsu と書いていますが、「キャッスル・ベイ」とは良いネーミングですね。ちなみに420(ヨンニーマル)クラスとは、艇長4.2メートルのヨットということで、2枚帆の2人乗りだということです。

 さて、浜崎祇園祭を祭礼とする諏訪神社の拝殿です。神社として、とても良い雰囲気を持っています。宣化(せんか)天皇2年(西暦537年)、新羅討伐を命じられた大伴狭手彦が半島に渡る前に、その戦勝を願って勧請したものと伝えられています。彼と佐用姫との恋愛譚は、このとき生まれたものでしょう。
 参道の右に見える、こちら向きの白装束の方はこの神社の宮司さんで、放送局か何かのインタビューを受けているところですが、ちょっとわかりにくいですかね。


 諏訪神社の外では、西組の祇園山笠の準備の真っ只中です(写真左上)。「竹之下の戦い」と銘打たれたこの山笠は、足利尊氏と新田義貞との箱根での戦いの様子をかたどったものです。
 その近くの「ひきやま公園」では、東組の「南北朝 湊川の決戦」と、浜組の「壇ノ浦の戦い源義経の八艘飛び」の準備に余念がないようでした(写真右上)。
 これらの山笠は、高さ15メートル、重さ5トンと言われる代物で、丸太を輪切りにしたような車輪が左右3輪ずつの6輪。 山笠のテーマ選びや飾りつけの構想は、それぞれの組の人たちが相談しながら決めるそうで、飾りつける部品は手作りです。自分たちの山笠に抱く愛着は、小さいものではないことが想像されます。

 平成27年6月22日 玉島神社と玉島川

 玉島と言えば玉島神社です。まずは駐車場に車を止めて、参道の階段を登ります。かなりの急傾斜で、足腰に支障がある人は駐車場から車で上がって来られるようになっています。
 社務所はありませんが、大きな屋根の手水場があり、小ぢんまりしたたたずまいの拝殿(写真)が建っています。祭神は神功皇后。創建は宣化天皇時代または欽明天皇時代とありますので、6世紀半ばとなります。
 拝殿の裏にもうひとつ急な階段があり、その上に本殿がありますが、これは唐津藩主・土井利実(としざね)(1713~1736)が建立したものだそうです。

 神社の二の鳥居から外を見ると、すぐ前を流れているのが玉島川です(写真)。なんだか優しい流れです。
 向こう岸に並んでいるビニールハウスは、みかんの栽培だと思います。そして、その奥の建物は玉島小学校です。赤みがかった屋根は体育館でしょうか。
 そのさらに奥の山影は、鬼ガ城があったといわれる城山の一部です。鬼ガ城は、古代では神功皇后の御出張城とされ、中世には松浦川右岸一帯を領地とした草野氏の居城だったようです。


 玉島神社の前あたりから上流を見た玉島川(写真)。
 松浦川ほどには大きくなく、コンクリート護岸に固められた町田(ちょうだ)川とも違う、もっと地域と密着した感じがする川です。
 古代の人々がこよなく愛した川、ということがわかるような川だと思います。単に水を満々と湛え、ゆったりと流れているからではなく、おそらく川を取り巻く自然や人家のたたずまいの所為ではないでしょうか。うまく説明できません。


 玉島地区から伸びている道路が、七山方面と平原(ひらばる)方面とに分かれるあたりに、「万葉垂綸(すいりん)公園」があります(写真)。
 神功皇后が三韓征伐に赴く時、その成功を祈って玉島川の石に立ち玉島川に釣糸を垂れたところ若鮎がかかり「これは珍しい」と仰せになったので、梅豆羅(めずら)国の名が生まれたと言いますが、その釣糸を垂れた石「水綸石」が、ここ玉島をうたった山上憶良や大伴旅人の句を刻んだ石と共に置かれています。
 玉島は、古代から都に知られた所だったのですね。

 静かな流れの玉島川も、玉島神社からわずか1.5km上流に行けば、緑深い谷間(写真)となり、川筋は見えません。
 ここら辺は「七瀬の淀」といわれるところで、万葉の句に「松浦川七瀬の淀は澱むともわれはよどまず君をし待たむ」と歌われている所です。
 万葉水綸公園には、大伴旅人の「松浦(まつら)川玉島の浦に若鮎(わかゆ)釣る妹(いも)らを見らむ人の羨(とも)しさ」という句が彫られた石がありましたが、ここら辺りで若鮎のような娘たちが釣りにはしゃいでいたのでしょうか。

 平成27年5月30日 神集(かしわ)島の「鯨ん神さん」

 神集島にあるという「鯨ん神さん」を見るために、神集島に行ってみることにしました。今日はあいにくの雨模様です。
 唐津市湊町の湊浜漁港から湊~神集島間を往復する定期便(写真)に乗船します。後方の島影が神集島です。
 この定期便は、日曜祝祭日を除けば1日9往復しています。片道230円。
 船には40~50人くらいの座席がありますが、今日は土曜日の朝10時発の便なので、乗客は10人くらいだったでしょうか。
 実は私は、神集島は今回が初めてです。ちょっとワクワク感がありました。

 神集島にはものの10分ほどで到着です。「鯨ん神さん」は黒瀬という所にあるらしいのですが、唐津市地図によれば山道をたどるようなのです。その山道がしっかりしているかどうか不安で、島の人に聞いてみました。
 島の人は小さなパンフレットと島の地図を持ってきてくれて、黒瀬までの海沿いの道を教えてくれました。船着場は島の北西にあって、黒瀬はちょうどその真逆の南東の方にあるようです。
 神集島漁港(写真)と、その隣にある小さな海水浴場をとおって、島の南端を目指してしばらく歩を進めます。

 対岸に立神岩(写真)が見えました。晴れていればもっと良く見えるのでしょうが残念です。
 島の南側に入ると、唐津湾の高島や鳥島や大島が見えてきて、やがて鳥島の向こう側には満島山の唐津城、高島の向こう側には鏡山が見えてきます。この3つの島と2つの山を、狭い視野角の中で一度に見ることができたのには感激しました。雨模様ですからほんのうっすらとしか見られず、写真に撮ってもわからないと思うので撮っていません。ほんとうに残念です。


 島の漁港から20分くらい歩いた所に、防波堤があって漁船らしき船が2艘ほど停泊していました。このあたりが黒瀬のようです。建物も2、3棟建っています(写真)。防波堤の上では2、3人の人が釣りをしていました。
 案内してくれた島の人は、蔓みたいなものに覆われた小屋の裏側に「鯨ん神さん」はある、と言っていました。この小屋のようです。物置に使っていたのでしょうか。
 良く見ると、小屋を覆っているのは蔓だけではないようです。小屋の中で育った木が壁を貫き枝葉を伸ばしているように見えます。やはり九州なのでしょうか、恐るべき生命力です。

 この生命力ならば、小屋の周囲には雑草が生い茂っているかもしれない、と恐る恐る小屋の裏手に回ると、なんと雑草は見事に刈り取られていました。ならば、この先に「鯨ん神さん」はおらすに違いない、と踏み込んでみると、確かにおらしたとです。
 鯨の背中にどっかりと腰を下ろした恵比寿の像です(写真)。鯨は波を押し立てて楽しそうな表情です。
 神集島では、明治11年から大正初期まで「神鯨組」という捕鯨集団が、黒瀬沖で巨大な一種の定置網を使った捕鯨をやっていて、順調な時期には毎年7、8頭を捕獲していたようです。
 ただこの石像は、明治28年に建立されたものですが、その当時捕鯨での事故があって、その供養に建てられたもの、と小さなパンフレットには書いてありました。どんな事故だったかは、まだわかりません。ともかくも合掌です。

 帰り道に漁港の突堤の先に行ってみました。途中、突堤の壁にこんな絵が描いてありました(写真)。
 神集島小学校の閉校記念のようです。7人の児童の絵ですが、同じ年齢に見えるので最後の卒業生でしょうか。閉校は2011年3月27日とありますから、進学しているとすれば今は高校2年生です。どこで勉強しているのでしょうか。
 小学校の跡地に行って見ましたが、建物はまだそのままで、鳥小屋には烏骨鶏が元気な鳴き声を上げていました。どなたかが世話をしているのでしょうか。隣の中学校も、今は閉校です。

 この突堤は神集島漁港の入口となりますが、突堤の反対側は宮崎という陸地の先端で、そこに住吉神社(写真)が祀られています。住吉社と言えば海の神様です。
 小さな神社ですが、その鳥居の数は多く、思い出せませんが4基か5基ありました。昭和15年建立の一の鳥居は、写真のように海の中にあって、満潮時には足元は海没します。
 集落から続く道の両脇には浜木綿が植えられていますが、神集島は浜木綿の北限だということです。西海岸には群生しているそうですが、今はまだ花の時期ではないようです。
 午後1時半神集島発の定期便で、湊浜漁港に戻りました。

 平成27年4月15日 名護屋城に行く

 久しぶりに名護屋城跡に行ってみました。
 覚えているのは、小学校高学年の時の遠足です。今では十分に整備されていて、案内板もたくさん設置されているし、ハングル語も書かれていて、この史跡の特徴が現れていると思います。訪れる人も韓国人が多いようです。県立名護屋城博物館の常設展示である「日本列島と朝鮮半島との交流史」も両国の相互理解に貢献するものですし、韓国語スピーチコンテストなども開催されているようです。
 写真は本丸の大手門跡です。

 友達と撮った当時の写真を今も持っていますが、丸っこい石碑の前で撮ったもので、「太閤の睨みし・・・」と彫ってあったと記憶していました。
 その石碑は本丸跡の広場に今もありました。「太閤の睨みし海の霞かな」と彫られていて、昭和8年に青木月斗(げっと・明治12年~昭和24年)という俳人が詠んだ句で、石碑は昭和15年に建てられたもののようです。
 石碑の後方の島は加部島です。その右に呼子と結ぶ呼子大橋が架かっているのですが、残念ながら良くわかりませんね。

 天守閣跡からの眺望です。沖合の右の島は松島ですが、その向こうには壱岐が横たわり、そのすぐ左側に対馬がうっすらと見えていました。春霞のせいかPM2.5のせいか良くわかりませんが、写真ではその遠望ははっきりしません。
 昭和15年と言えば中国戦線は膠着状態で、石油を求めて南進した日本軍に対して米国が対日石油禁輸を発動した年です。「太閤の睨みし海の霞かな」。この石碑の建立は、日支事変(日中戦争)の行く末を暗示させたもののように思われます。


 今の季節、八重桜がふんわりと咲いています。楠木の新緑は眩しいくらいです。








 平成27年3月8日 「唐津ひいな遊び」 

 唐津では「唐津ひいな遊び」が開催されていました。会場は旧唐津市街の「埋門ノ館」「旧唐津銀行」「ギャラリー魚や町」と、呼子の「鯨組 中尾家屋敷」、鏡の「古代の森会館」の5か所です。今日はその最終日。時間の都合で「埋門ノ館」と「ギャラリー魚や町」に行ってみました。
 左の写真は埋門ノ館の雛飾りです。着物を着た女の子たちも見に来ていて、花に花を添えていました。各年代のひな段がたくさん飾られていて、外の空気はやや冷たいもののここだけは春が来ているようでした。

 中でも目を引いたのは「御殿雛」です。御殿の中央に男雛と女雛、その両脇に右大臣と左大臣、前に三人官女、御殿の足元に五人囃子と並んでいます。
 鏡の人の出品で、昭和初期の作ということです。段雛よりもこじんまりとして、雛自体も小型ですが、御殿を背景にしているためか物語り性があり面白いです。でもこれ男目線ですかね。




 同じ御殿雛でも「ギャラリー魚や町」のものには驚きました。これは「木屋の御殿雛」と名づけられています。
 魚屋町の八代目木屋山内小兵衛(通称・蔵六)の長女・カ子(かね)が安政5年の3月の節句に生まれたため、京都の人形職人に作らせたものとされています。埋門ノ館に飾られていた御殿雛とは違い、人形の組み合わせ、それぞれの位置どり、人形の姿態、など自由闊達な雰囲気がありますが(画像が小さくてすみません)、これは蔵六が形式にとらわれず自由に作らせたためということでした。

 面白いことに御殿内部の襖には、ちゃんと襖絵が描いてあるんです。フラッシュを使って撮ってみました。画像をクリックしてみてください。なかなか凝っていると思いませんか。
 前方の4体の女性のうち、両脇の2体と座っている1体とが三人官女だと思われますが、いかにも楽しげです。真ん中の立っている女性は踊り子でしょうか。奥の女雛さまもお顔をおかしげになって歌ってあらせられるようで、涼やかな御みお声が聞こえてくるような雰囲気です。他の人形を見ていても、いかにも楽し気で魅力的な雰囲気をかもしているように思います。
 浮かれている御殿にあって、ひとり右大臣・左大臣のみが渋面を作り、浮かれる心を必死に抑えているように見えます。
 この御殿雛には、伝統やしきたりに囚われない町人の心意気を感じさせます。大変貴重で楽しいものを見ることができました。